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2014年12月15日月曜日

茶道と歴史の権力者

#コラム #学生
キャロライン・ケネディ、駐日米大使就任

   2013年11月15日、キャロライン・ケネディが駐日米大使に就任した。彼女は故・ケネディ元大統領の娘であり、日本に好意的な人物であることはニュースで度々報じられてきた。彼女の就任によるアメリカと日本間の関係良好化に期待している政界、財界の重鎮も多い。そんな彼女が駐日米大使に就任する直前、アメリカの日本大使館で開催された茶会が新聞各紙やニュース番組で取り上げられた。笑顔で茶人から抹茶を受け取り、飲んだ彼女の姿を見たとき「この人は本当に日本に友好的な人物だ」と感じた人も多いのではないだろうか。日本人ならば、茶道に詳しくない人でも茶器を両手に捧げ持ち、口元に当てる姿を見れば、
その動作が「茶道」だと想像できるだろう。そして抹茶を飲む外国人を見れば、彼らが日本に対して好意的な人物像だと感じるはずだ。なぜならば、茶道は日本の伝統文化であり、国を代表するイメージカラーのひとつだからだ。各国のイメージカラーたる文化に馴染む外国人を見れば、その国に対して好意的であることが想像しやすい。この図式を最大限に利用したのが今回のキャロライン・ケネディが茶道を嗜む姿の報道だ。政治に文化を利用する。これは決して最近の傾向ではなく、古くから行われていることである。今回は、キャロライン・ケネディの茶道報道にちなみ、茶道と日本んの政治の関係について、掘り下げていく。

茶道の始まり

 日本史の教科書を紐解けば「村田珠光が室町時代中期に「侘び茶」を始め、千利休が戦国時代に大成した」という内容が記載されているだろう。また、金閣寺や銀閣寺に見られる茶室の存在を知っている人が多い事から「茶道歴史」の起源を室町時代に求める人が多いのかもしれない。端的に言えば、その考えは間違えではない。現在の日本人が想像する「茶道」の源流は室町時代から戦国時代の世論を背景に確立されたものである。しかし、日本に「茶」の文化が流入してきたのはもっと古く、都を平安京に移してから10年間の間のことである。この時期は、国内が飢饉などにより、国家自体が不安定になっていた。仏教を通じて国を守護する、鎮護国家の思想に基づき、様々な行事が行われていた。その行事のひとつとして「季御読経」がある。これは1年間に4回、般若心経を読経するというもので、読経後に天皇や僧らが茶を飲む「引き茶」が行われていた。この引き茶に利用する茶の栽培を大内裏で行っており、国を挙げての事業の一つであることが窺えるはずだ。しかし、この時期の茶は中国にて形成された茶の文化を反映したものであり、日本独自の文化として発展した訳ではないことを明記しておく。茶道のような日本独自の茶文化の傾向が現れたのは鎌倉時代であり、中国の宗時代に禅宗とともにもたらされた抹茶法によるものだ。この文化は主に禅僧院内で行われる喫茶の文化が徐々に周辺に広まっていった文化で、精神を鍛える茶道に通じるものがあった。室町時代初期、足利義満の時代は茶を娯楽の一部として考え、唐物の陶器を多数並べ、美しい美術品を眺めながら茶を飲む、現代の茶道とはかけ離れた文化を形成していた。この文化はどこか後の世の豊臣秀吉に類似する傾向が見られていた。一方、同じ室町時代でも足利義政時代では村田珠光にみられる著名な茶人も頭角を表し、空間を簡素にし、茶を飲むことで精神を鍛える形式に変化した。これが戦国時代の武将たちの間で嗜みとされた茶道文化に通じている。

織田信長と茶道

 戦国時代、茶道は嗜みだった。武士の誰もが茶を好み、名のある茶器を所有することが一種のステータスだった。その風潮を利用し、茶道を政治に利用した最初の人物は織田信長だ。彼は後の世に「名物狩り」と呼ばれる、多くの武将や商人から時には強引な手を用いて名器を蒐集した。しかし、彼自身が茶道をこよなく愛していたのかと問われればそうとは言い切れないと回答するだろう。戦国時代、日本に来日していたキリスト教の宣教師、ルイス・フロストが記した『日本史』(松田毅一、川崎桃太訳)によると「彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目の前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ」とある。この記載によれば茶器には好んで蒐集していたことを伺い知る事ができるが、「茶の湯を好んだ」とは記載されていないのである。もちろん、彼が茶道を嗜んでいた事はたしかである。『天王寺夜会記』によれば、天正元年(1573年)11月23日に彼が催した茶会において、彼は津田宗久(千利休)に自らお茶を立てている。しかし、彼が茶会を催し、茶器を蒐集していたのは単に趣味だからではない。蒐集した茶器は功績を打ち立てた部下に譲渡をしていた。この譲渡には領土問題の解決だと、武将との繋がりを強固にする目的があった。功績を打ち立てた部下の恩賞として領土や地位を与える代わりに茶器を与えることで、上に立つものとしての威厳と懐の広さを示したのだ。更に信長が茶道を政治的に利用した政策として「御茶湯御政道」が上げられる。信長は特定の家臣に茶会の開催を許可制とし、許可無く茶会を開くことを禁止した。許可を得る事は武将にとって最大の誉れとされ、武将にとって茶道が大きな意味を持っていた事を示す政策であったといえる。

豊臣秀吉と茶道

織田信長の後を継いで政治の表舞台に登場した豊臣秀吉。彼は織田信長が敷いた「御茶湯御政道」及び、名物狩りを行う一方で、功績を上げた部下に名器を下賜する政治形態をそのまま引き継いだ。彼にとって重要な人物を頻繁に茶会に招き、自分が持っている名器を見せびらかすことで一種の権力を内外に示していた。これも室町時代から戦国時代に至までの茶道が確立した地位と茶器の価値が高いからこその成果と言える。豊臣秀吉と茶道を結びつける人物として、千利休の存在がある。彼らの出会いは定かではないが1579年には豊臣秀吉と千利休が茶器の貸し借りをしていることからすでに仲の良さが明らかである。また、天下人となってから、秀吉は多くのイベントを催しているが、多くは茶会を利用しており、千利休に茶をたてさせていたということだ。
 イベントを大まかに上げてみると以下の茶会がある。
1584年10月15日の大阪城茶会
1585年9月7日の禁中茶会
1587年1月3日の大阪城の関白大茶会
1587年10月1日の北野大茶湯
 特に注目すべきは②の禁中茶会である。この茶会は天皇陛下の御所にて行われた茶会であり、この茶会を豊臣秀吉が開くということが天皇、朝廷に対して自分の権力を誇示すると同時に、茶会を天皇公式のイベントを催す事で朝廷内の権力者に近づく機会を得る事ができるという一石二鳥のイベントである。しかし、この当時、武士の嗜みとして親しまれていた茶道文化だが、実の所、朝廷側にはあまり親しまれていなかった。平安時代には鎮護国家のイベントのひとつとして利用されていた茶ではあるが、当時の茶とはまったく異なった手法で嗜まれる茶は公家を筆頭に朝廷側の人間には馴染まなかったのだろう。
 豊臣秀吉はこの状況を知った上でこの茶会を開いた。天皇のために使用される茶器はいずれも名器を取り揃え、茶葉も中国伝来の最高級品を用いての大茶会は、天皇を始め、宮廷側の人間に茶道を認めさせ、興味を持たせた。この時期(17世紀前半)に建てられた桂離宮、修学院離宮に茶室が設けられるようになったのも、豊臣秀吉の茶会の影響に間違いない。こうして、自身の出自にコンプレックスを抱いている豊臣秀吉にとって茶道を利用することによって、高い身分出自の武将たちと対等であることを内外に示していたのである。

最後に

 江戸時代に入ると茶道を政治利用する動きは急激に衰えた。民衆の娯楽の一環としての道を茶道は歩み始め、現代に至る。ここ10年、日本人が茶道を嗜む人口が減少傾向にある
 一方で、茶道の文化を国外の人々に普及しようとする動きが活発だ。茶道の大家として知られる裏千家茶道では現在、世界30数カ国ほどに拠点を持ち、講師たちが海外の人々に茶道を教えている。また、外務省や国際交流基金、各国大使館からの要請で茶会の場を設け、各国の要人に振る舞うことは往々にあるようだ。冒頭で登場したキャロライン・ケネディ駐日米大使の件を見てもよくわかる事例だろう。日本人の知らないところで茶道は世界に浸透しつつある。これからはメディアが伝統文化を世界に発信していく様を積極的に報道していくべきだ。日本人は多かれ少なかれ、海外からの輸入品を好む傾向がある。元々は日本の文化でも海外が興味を示している事を知れば、日本国内でも茶道、ひいては伝統文化に興味を持つ人口が増えるはずだ。国外に普及し、日本に伝播する。このサイクルはいずれ大きな波となり、経済分野に新しい風を吹かせ、日本人の心を豊かにすることができるに違いない。それこそが真の意味で「伝統文化を利用する」ことなのだ。

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