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総合出版ゼミに所属している雑誌編集専攻の2年生が、1年次に執筆した自慢のコラムを紹介します。

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2014年12月1日月曜日

フィクションは死んだ。

#コラム #学生


 フィクションは死んだ。
 ある日ひっそり孤独死したのではない。
 人々が寄って集って殺してしまったのだ。
 アトムが空を飛べなくなる日もそろそろ近い。

 フィクションとは虚構のことだ。それは想像力によって、人物・出来事・場面などを現実であるかのように組み立てたものだ。すなわち虚構とは事実(リアル)ではない。そして恐ろしいことに今、虚構が死んだことで、事実も息絶えそうになっている。それに私は警鐘を鳴らしたい。
 まず虚構の評価でリアリティ(事実味)が無いという評価がある。僕らは虚構を、事実をモデルに理解・推測する。虚構が事実からより想像しやすいほど、受取手の理解と推測の助けとなる。
 例えばアトムは飛べる。なぜ飛べるかと言えば内蔵する原子炉の熱エネルギーを使うからだ。アトムはそのエネルギーで空気を膨張させたジェットで飛んでいる。そしてこの場合のリアリティとは原子炉の熱エネルギーにある。現実に可能かはさほど重要ではない。もちろん出来ることにこしたことは無い。しかし重要なのは、受取手がそこにどれだけの説得力を感じたかどうかだろう。
 リアリティとはその虚構が、現実にいる僕たちからしてどれだけ受け入れ易いか否かの指標だ。どんなに現実から離れた虚構でも、どれだけのリアリティがあるかは作り手の技量と、受け手の想像力しだいだ。逆にそれほど現実と離れていない虚構でも、どちらかが欠ければリアリティがない場合もある。
 しかしリアリティという言葉は、その機能を失ってしまった。
 失ったと感じたのは私の周囲のことからだ。最近私の周りで虚構作品をみて不思議なことを言う人が増えている。それは虚構作品を見て「フィクションだから、リアリティがなくてつまらない」と感想を言うひと。でも彼らは別に、硬派なノンフィクションに生きている人達ではない。普通にTVも映画もみるし、ディズニーランドにも行く。時にはアニメだって見る。じゃあなんでそんなことを耳にすることが増えたのか。何故か、多分その糸口は、最近は何にでも受取手に脳を使わせるものは売れないという話にある。私は、つっこみたくてしょうがない。昔から難しいとされるSFは売れなかったじゃんと。つまりそれは「最近」ではない「昔から」のことだと。でも良く見れば最近の虚構作品はとても考えさせない苦労をしている。昔は宇宙力! と銘打てば通用したスーパーパワーも、今ではそんなもの誰も信じない。だからまことしやかなカガク的説明が施されている。それこそ子供向けのアニメにも。
僕たちは虚構作品で疑問に思ったら、すぐにネットにアクセスしてどっかの誰かの考えや、公式のデータに触れられる。空想科学読本ではちゃんと専門家が解説をしてくれている……。虚構作品で考える必要はなくなりつつある。だから、答えのない、答えのでなくて良い問題に受取手がぶち当たると彼らは慌てだす。「調べてもない! 昔の知識に照らし合わせてもありえない! これはリアリティがない!」そう判断してしまう。
 リアリティが成立するためには作り手の努力が継続して必要だ。説得力として感じるものは時代が進むたびに変わっていく。昔なら神通力ですんだ説明が、脳みそを改造してどーたらという話になる。あらかじめ、そう考えれば楽に納得できる。そういった方向に僕たちは慣らされてしまっている。それは本来僕たちにストレスを与えることを良しとしなかった、虚構制作者達の努力によって出来た現状だ。でも、今はそのバランスがあまりにも崩れて、逆に虚構作品が成立しにくくなっているように感じられる。受取手はもはやリアリティを与えられるものだと感じている。決して彼らは虚構からリアリティをさがそうとはしない。では彼らの言うリアリティって何だろうか? フィクションじゃないってことか? でもノンフィクションは往々にしてフィクションのような事実を語っている。しかも別にノンフィクション信者が世界を席巻している訳じゃない。大抵の人はミッキーを信じてないけど好きだ。
そうして僕がだした結論は「考えたくない」の代名詞としての『リアリティが無い』である。彼らはリアリティがないと主張することで、「考えたくない」 と言わずにすむ。しかも、比較的良い意見に感じられるから、自尊心も護ることも出来る。
フィクションが死ぬときも近い。僕たちはフィクションから想像するのを辞めてしまった。それどころか、現実すらみえているか怪しい。


アトムを思い出して欲しい。アトムは何故飛べるのだろうか。彼が現実的には飛べないことは明白である。原子炉を体内に持っているなんて、危ない奴だとすら感じるかもしれない。放射能が漏れないのだろうかとも。でも彼が何となく大丈夫そうなのは、どこに説得力を感じるからだろうか? 人によってはヒーローだから! という理由でリアリティを感じることが出来るかもしれない。正直私にも解らなくなるときがある。フィクションは死につつある。

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